JFA研修会のテーマは「温故知新」。川淵キャプテンが全職員に日本サッカーの歴史を語る

「えっ、50年前の日本代表ってそんなレベル!?」
Jリーグができる前のサッカー界ってそんなだったの?」

 若いスタッフにとって川淵三郎キャプテン(JFA最顧問)の講義は目からうろこが落ちるものだったでしょうし、役員にとっては、懐かしく、また隔世の感を禁じ得ないものになったのではないでしょうか。

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 昨日(2月21日)、JFAの役員と全職員を対象にJFAの研修会が行われました。これは、大仁邦彌会長が就任時に掲げたミッションの一つ「公益財団法人の組織強化」の一環として行ったもので、第1回の今回は「温故知新」をテーマに、川淵キャプテンが日本サッカーの歴史について講義しました。

 大仁会長は研修会に際し、「若いスタッフの皆さんは今の日本サッカーの姿を当たり前だと思っているでしょうが、先輩たちが大変な努力をして今の隆盛があるんです。そこで一番バッターとして川淵キャプテンに講義をお願いしました」と挨拶。今年元日の「JFA STATEMENT」に記している通り、「日本サッカーの歴史を知ることで、もっと誇りや使命感を持って働くことになり、それが組織の強化や社会貢献の推進をもたらす」のです。

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 日本サッカーの歴史を辿ると、その時々で不思議なことや奇跡としか思えない瞬間があるものです。

 バブル経済がはじける直前に湧き上がったサッカーのプロ化構想は、その1年前でも1年後でもダメだっただろうという「神のみぞ知るタイミング」(川淵キャプテン)で実現しました。

 1960年に日本代表がドイツ・デュイスブルクのスポーツシューレで合宿を行わなかったら、 "地域に根ざしたスポーツクラブ"というJリーグの理念は今とは少し違ったものになっていたでしょう。77%もの人が「ホームクラブは、ホームタウンで大きな貢献をしている」(2009年Jリーグスタジアム観戦者調査より)という高い評価を得るに至っていなかったかもしれません。

 また、屋根付きのサッカー専用スタジアムの建設に望みを懸けた鹿島町(現、鹿嶋市)と地元住民の情熱は、「Jリーグ参入は99.999%無理」と言われていたJSL2部の住友金属サッカー部(現、鹿島アントラーズ)をJリーグに加入せしめ、サポーターの熱い応援はJリーグサントリーシリーズ優勝へと導きました。

 1試合30万円だったJSL時代の放送権料は、Jリーグ初年度には年間1000万円、2年目には2000万円に。それも代理店などを通さず、Jリーグが一元的に管理する方法を取りました。商品化権も同様。そういった権限をJリーグに集中させることでリーグ全体の事業収益の拡大を図り、クラブに分配する方式を取りました。

 FIFA内部の権力闘争に巻き込まれと言われるFIFAワールドカップ2002。共催決定は日本にとって受け入れ難いものでした。しかし、蓋を空けてみれば大成功。"近くて遠い国"同士だった日本と韓国の関係を飛躍的に改善させ、その後の韓流ブームへとつながります。

 もし、あのとき、広島ビッグアーチFIFAの基準通りに屋根をつけていたら、広島が新潟の代わりにワールドカップの開催地に選ばれていたでしょう。そしたら、ビッグスワン東北電力ビッグスワンスタジアム)などできず、新潟は今もなお、"サッカー不毛の地"と言われていたかもしれません。
 新潟出身の私にとっても、まさか地元にJリーグのクラブができ、アルビレックス新潟があんなに人気クラブになるなんて夢にも思いませんでした。

 1時間半のキャプテンの講演は、その時々の秘話や裏話が散りばめられ、とても興味深いものでした。150人を超えるスタッフも身を乗り出して聞き入っていました。そして、話はいよいよ佳境に。

 ところが・・・!

 話が、日本サッカーが急成長する時代に移ろうとしたその時、無常にもタイムアップの笛。「えーっ、もう終わっちゃうの!?」という声がそこはかとなく聞こえてきましたが、その後に事務局の懇親会が予定されていたため、キャプテンの講義は次の機会に持ち越されてしまいました。

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 Jリーグも開幕して20年が過ぎ、いよいよ3月2日、21年目のシーズンが始まります。
 10クラブでスタートしたリーグは20年で40クラブへと拡大し、アジアのトップリーグへと成長しました。

 Jリーグ成功の影には、「失うものは何もない」という川淵チェアマン(当時)らサッカー関係者の捨て身の覚悟とほとばしる情熱、そして、大いなるハッタリ(笑)なくしては語れないのです。